Reality and Virtuality アーティストのご紹介 vol.1
参加アーティストを数回にわけてご紹介してまいります。
付箋girl |fusengirl
◆経歴 東京藝術大学 絵画科日本画大学院修了
◆ステイトメント
物心つく前から絵を描き始め、それからずっと描くことそのものを生活として来ました。好きだからこその喜びも苦悩もあって、これからもそんなふうに生活としてあるいは一生の宿題として絵を描いていくんだろうと思っています。
なぜ絵を描くのか?一生の宿題の答えはまだわからないのですが、常に今、表現者として何を描きたいかを考えています。
根底にあるのは同じ現在を生きる絵描きとして、それぞれの人生を全うしようとする命を描きたいという思い。そうしてその様々な生を肯定したいのです。
色々な表現手段から付箋を選んだのは、全ての物事が猛スピードで流れていくこの時代の人々の命を、タイムラインのように付箋群として描き出せるから。今この時を切り取り、毎日記録していくのに一番しっくりくる表現方法だからです。
ふと、それまでのアカデミックな絵画手法からちょっと離れて、付箋に全力で臨む自分をおかしく思う時もないではありません。でもそれもまた自分らしくていいと思いながら、今日も付箋に自分の、誰かの『今』を描いています。
☆こちらの作品は展示しておりません。
TK
◆経歴 占星術師。5 Pointzを筆頭に各国へ旅をする中でグラフィティ、スプレーアートに影響を受ける。音楽活動、DJ、占星術、精神探求などを経てアートに回帰。
◆今回の展示について
70年代のパンクムーヴ、80年代のポップカルチャー、90年代ソニックユースのウォッシュマシーンなど、音楽が好きだった少年時代はCDやレコードのジャケットとかTシャツとかそういうものにとてつもなく興味をそそられて、それは自身が体験するストリートカルチャーへの入り口、その第一歩であったことは間違いなかった。
青年期、もちろんのことながら長い期間、高円寺にいた。芥川龍之介や太宰治や坂口安吾などを読んでいる自分に酔っていて毎日高円寺のいきつけのBarで深夜になるまで遊び音楽とはこういうものだ!文学は!などと酩酊して、【アァなんて自分は退廃的!】なんていう日が続いて、明日死ぬ可能性があってもそれはそれで良いなーという状態だったのだが、それは単なる享楽であって、いくら退廃的な文豪の真似をしたところで彼らにはなれないし、それはただの自己陶酔であった。
たぶん死といものをまだ軽率なふうに思っていた。そんな青年期だった。
ふと震災でいなくなった集落や東京でスイサイドしてしまった友人を思い出して、死とは何か?生きるというものは何かみたいな事を考えたのだが、それは答えがあって無いようなものだったりする。
1980年代アメリカの有名な教育番組で「フーパーさん」を演じていた役者さんの訃報を知らせる伝説的な回があった。【人の死】をよく理解できない子供たちに彼と二度と会えないということを大人が伝えるという回。周囲の大人たちが辛抱強く、丁寧に子供の気持ちに寄り添い接し伝え、少しずつ愛する人の死を受け入れてもらう。
晩年に社会の中で死について考えさせられた芥川龍之介と教育の中で死について考えさせられた黄色い鳥。これは死とは何か?についてもう一度向き合った作品です。
四宮彰吾|Shogo Shimiya
◆経歴 剣術、居合、禅刀道、闘剣を修行し、演武会や過酷な試合を体験して剣士としての気迫と闘気を習得する。長年に渡る剣の闘いで培われ鍛えられて研ぎ澄まされた洞察力と観察眼と審美眼が創作活動に活かされている。
◆今回の展示について
MYSTERIOUSシリーズは只のフォーカスを失った写真ではない。
被写体を含む全体を『bokeh=ぼけ』というある種の付加情報を表示して現実世界を拡張させているのだ。つまり、意図的にアウトフォーカスすることにより、その奥に様々な想像を駆り立てる仮想世界を創りあげ、現実と仮想のボーダーレス化を図っている。
『bokeh=ぼけ』を帯びた被写体は鑑賞者に真のリアリティを語りかけてくるのだ。
私のいう真のリアリティとは、フィクショナルなリアリティではなく、パラフレーズされたリアリティといえる。
因みに『bokeh』は日本語の『ぼけ』からきている言葉だ。日本人には古くから『ぼけ』を楽しむ文化が本能的にあると考えられる。それは、水墨画や日本画や水彩画で顕著に見られる『ぼかし』や『にじみ(日本画では垂らし込み)』という表現方法からも窺える。水墨画の画法だと『破墨法』が写真の『bokeh=ぼけ』に近いだろうか。
MYSTERIOUSシリーズは『bokeh=ぼけ』をユニークに作品へ取り入れ、独自性の強い写真にして個性を確立させたい。私は日本人が備えている美意識である『bokeh=ぼけ』の探求に挑んでゆく。